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TOP>メディアが教えない消費生活入門>「無添加」「無農薬」は本当に良いものか?

「量」の概念

ある清涼飲料水に、着色料として青色1号が含まれている、これは発がん性があるという風評がネットで広まったことがあります。それに対して、飲料に添加されている程度では心配無用、その飲料を飲みすぎて、糖分の過剰摂取になることはあっても、青色1号が原因でがんになることは不可能だと火消しに回った思い出があります。

500年前、ルネサンス期の医師だったパラケルススは、次のような言葉を残しています。

パラケルスス

「あらゆる物質は毒である。毒になるか薬になるかは摂取量によって決まる」

この言葉が、今日にいたるまで毒性学の基本となっています。食塩も水も、摂り過ぎれば中毒を起こすわけです。ところが、食品添加物や残留農薬の問題を取り上げるとき、しばしば、「量の概念」を無視した議論がみられます。かつてベストセラーになった、『買ってはいけない』が、その典型でしょう。ところが、この種の煽り本の、「実験動物が死んだから、この添加物は危険だ」式の論法には、「量の概念を無視している」という、大きな問題があるわけです。

長村洋一・健康食品管理士認定協会理事長が講演した際、こんなやり取りがあったということです。(PDF)

ある大都市の消費生活センターの講演で食品添加物の話をしたときのことであった。私の講演が終了するやいなや、待ちかまえていたように非常に真面目そうな主婦の方が質問をされた。

その問答は次のように行われた。

質問者「今日の先生のお話は大変分かりやすく良く理解でき勉強になりました。そこで、一つ質問があるのですが、ソルビン酸のような保存料はどんなにたくさん食べても絶対に問題がないのですか?」

長村 「いいえ、講演の中でも申し上げましたように大量に摂取すればどんな物質でも健康に被害がでます。」

質問者「ほら、先生は食品添加物は安全だと言っておられますが、量の問題でごまかしていらっしゃるじゃないですか。先生は安全だとおっしゃってもたくさん食べれば毒になるわけですから実際には危険じゃないですか」

長村 「いいえ、ですから食品添加物として取る量では問題が発生する可能性は無いと申し上げているのです。そして、保存料を添加することによる利益を考えたら加えた方が良いと申し上げたのですが、・・・・」

質問者「私がお尋ねしているのはどんなに大量に食べても保存料は絶対安全かどうかを聞いているのです。」

長村 「ですから、大量にとればどんな物質でも毒になります。しかし、食品添加物として摂る量では何の問題も起こりません。」

質問者「先生の理論は間違っていると思います。大量に摂れば毒だと言うことが先生も分かっておられるではないですか。ですから本当は毒物を少しなら安全だとごまかして見えるではないですか」

長村 「ですから、毒性があるかないと言う点から申し上げれば先程のスライドにもありましたように食塩でもアルコールでも大量に摂れば死にます。どんな物質でも大量に摂れば毒性がでます。」

質問者「何回も申し上げますが、私がお尋ねしていることは、保存料はどんなにたくさん食べても安全かと言うことです。先生は大量に食べれば体に悪いが少しなら安全だという言い方で毒物を安全だとごまかして見えるではないですか」

長村 「ですから先程から何回もお答えしているようにどんな化学物質も量がすぎれば・・・」

この問答は同じような話の繰り返しでしばらく続いたが、理論がかみ合わないのは質問者に量の概念がないために生じているトラブルである。この会場におられた多くの聴衆は私の講演を通してどんな物質も量の問題が大切で、量が過ぎれば毒性がでるという話を理解しておられた。そのため、私と質問者の押し問答にも似た議論の中で質問者に量の概念が無いことは分かる人には分かっていた。会場ではこの質問者が「先生のお話はよく分かった」と最初に言っていたが、結局は私の話した量の概念の問題を全く理解していなかったことを露呈していたので、その質問に嘲笑的な笑いを投げられる方が一部おられた。

こうした会場で一般の方が質問をするのにはかなり勇気のいることである。従って、この質問者は相当に自信をもってこの意見をおっしゃっていたと考えられる。この方がもし学生であったとするならば、「あなたは今の私の講義で何を聞いていたのだ」と学生をしかりつけるような質問であるが、市民講座では聴衆に対してそうした態度をとることもできず苦労の種である。それと共に量の概念が無く、感覚だけで物事を判断しようとする人達へ量の概念からものごとを納得させることの難しさを痛感している。

無毒性量と一日摂取許容量

食品添加物や残留農薬の基準は、複数の実験動物を用いて決めています。実験動物に毎日一定量その物質を与え続けて、一生涯にいたるまで有害な影響が見られない、その上限を無毒性量(NOAEL)とします。それに、動物とヒトとでは感受性が違うかもしれない、ヒトでも、成人と、子供や高齢者とでは違うかもしれないということで、安全係数(通常は1/100)を掛けた量を、ヒトにおける一日摂取許容量(ADI)と定め、更に摂取量がADIを下回るようにして、使用基準を定めているわけです。

食の安全について 保存料メーカーが説明します 上野製薬株式会社

「実験動物が死ぬ」ほどの量、これは急性毒性試験であり、上記の、使用基準を決めるにあたって行っている慢性毒性試験とは全く異なるものです。安部司著『食品の裏側』(この本に関しては別項で取り上げます)では、意図したものかどうかはともかく、この両者をごっちゃにした記述があります。「死ぬほどの量」を、人間が食品を摂取した場合に換算すると、毎日トラック1台分食べるというような、途方もない量になってしまい、非現実的に過ぎます。それほどの量を毎日摂れば、水だって死にますよ(笑)。

亜硝酸塩

食品添加物バッシングで昔から槍玉に挙げられているものの一つが、ハムやソーセージの発色に使われる亜硝酸塩です。確かに、亜硝酸塩が発がん物質であるニトロソアミンになることは分かっているですが、食品添加物批判者が薦めているような、添加物として亜硝酸塩を用いたものではない、昔ながらの岩塩を用いたハムがいいのでしょうか?

実は、岩塩にも亜硝酸塩が含まれているので、添加物の亜硝酸塩も天然岩塩も、結局やっているは同じことなのです。また、普通の野菜にも大量に硝酸塩が含まれており、体内で亜硝酸に変わることが分かっています。それに比べれば、たかだかハムに使われる程度の亜硝酸塩は、大した問題ではないのです。

チクロの発がん性は、濡れ衣だった

おそらく、現在も根強く残る、漫然とした食品添加物に対する恐怖感の根底に、人工甘味料のチクロ(サイクラミン酸ナトリウム)の一件があると思われます。

チクロは、ラットを使った実験で発がん性が疑われたとFDA(米国食品医薬品局)が発表し、日本では1969年に食品添加物としての指定が取り消されました。ところが、サルに20年以上チクロを投与する実験を行ったところ発がん性が認められず、現在では日本やアメリカでは禁止されたままである一方、EUやカナダ、中国などでは再び使われるようになっています(それらの地域からの輸入食品の回収騒ぎがしばしば起きています)。要は、それらの地域に住んでいる人は、普通にチクロを摂取している、それで健康に影響をきたすものではないということです。チクロ騒動のときの食品業界の動揺は凄まじいものがあり、中小の食品企業がバタバタ倒産して国賠訴訟まで起きたので、 今更無害であることを公には出来ないのでしょうか。

天然信仰

「天然だから安心」というような謳い文句が多々ありますが、トリカブトもフグも天然毒ですね。生豆は有毒なレクチンを含むから十分に加熱する、ジャガイモの芽にはソラニンが含まれているから取り除く、ワラビはプタキロサイドを含むから灰汁抜きをする、というように、普通に食べている食材にも毒を含むものがあります。桜餅の芳香は、桜の葉に含まれるクマリンによるものですが、これは大量に摂取すると肝毒性があるので食品添加物としては認められておらず、桜の葉を使わずに作った桜餅には別の香料が用いられます。人には無害なタマネギは犬や猫には猛毒であることは飼い主には常識。

別項目で述べる「ダイエット情報」でも触れますが、健康被害を起こした個人輸入の「痩身食品」に含まれて問題とされた成分も、エフェドリンのような「天然成分」でした。「天然だから安心」「100%天然成分」「自然だから」といった言葉には、惑わされないようにしてください。

「天然酵母」というのもヘンな言葉ですね。微生物である酵母に人工酵母とか化学合成酵母なんてありえないのですから(笑)。「自家製製パン種」と言い換えるべきでしょう

そうすると、「天然水」というのも、水に化学合成水なんてないからヘンです(あえて「合成水」の例を挙げると、水素エンジンの排気とか?)。

天然添加物

食品添加物をめぐる矛盾として挙げられるのが、「既存添加物」と呼ばれるようになった「天然添加物」の存在です。

青色1号のような合成品は「指定添加物」として、安全性評価がよく分かっているものが生き残っています。ところが、「天然添加物」というのは、1995年までは規制がなくて、長い間使われてきて安全と考えられるものを「既存添加物」としてリスト化し、後付けで安全性評価を行ってきたものです。そうした中で、発がん性が疑われて脱落したのが「アカネ色素」でした。まだまだ評価は途上なので、今後、第二第三のアカネ色素が出るかもしれません。

残留農薬

現在の農薬の基準は非常に厳しいものです。日本の場合、2006年に施行されたポジティブリスト制により、農薬の残留は「原則禁止」になりました。その「原則」に対して、いわば「例外」として、使える農薬を決めているわけですが、食品添加物同様、安全性評価を行って基準を決めている以上、健康影響はまず無視して良いのです。

残留農薬に関する漠然とした不安、そのもとには、チクロ騒動に前後して農薬の問題を世に問うた本、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、有吉佐和子の『複合汚染』の影響からなのでしょう。『沈黙の春』では、特にDDTを槍玉に挙げたのですが、確かに当時は、DDTやディルドリンのように、非常に分解しにくい物質が農薬として使われていました。それからおよそ40年経ち、DDTもディルドリンもとうの昔に農薬登録が失効し、農薬の姿は大きく変わったのですが、未だに「農薬=なんだか怖い白い粉」というステレオタイプなイメージがあるようです。本山直樹・千葉大学名誉教授があるニュース番組にコメンテーターとして出た時、放送前の打ち合わせで、「資料映像」として白い粉を振り撒く機械を見せられて、「これは数十年前のものだ。今時こんな機械はどこでも使っていない。これでは視聴者に嘘をつくことになる」と言うと、スタッフはキョトンとしていたそうです。

「残留農薬が基準の○○倍」のカラクリ

2002年、中国産冷凍ホウレンソウから基準を超える、有機リン系農薬・クロルピリホスが検出されて回収騒ぎになりました。ホウレンソウにおけるクロルピリホスの基準は0.01ppmで、この時の最も残留濃度の高かったものは2.5ppm、「基準の250倍」と、マスメディアは書き立てたのです。

ところが、同じ葉物野菜である小松菜の場合、クロルピリホスの基準は2.0ppmと、200倍も違うのです。小松菜だと、2.5ppmこそアウトだが、1.8ppmとかだと(ホウレンソウでは「基準の180倍」になるが)セーフなわけです。何故こんなことが起こるでしょうか?

「日本では、小松菜にクロルピリホスを使ってもいいが、ホウレンソウには使ってはいけない」からです。ホウレンソウで農薬登録されていないから。じゃあ、0.01ppmではなくてゼロに出来ないのか?と思われるかもしれませんが、分析機器の精度なんかの問題もあるわけで、「使ってはいけないもの」には、一律基準として0.01ppmを割り付けているわけです。それが、チクロの件でも触れたように、国によって基準が異なるから回収騒ぎになる、というわけです。

2007年には、学校給食に使用する予定だった、中国産(ギョーザ事件にせよ、「中国」には反応するんですね)キクラゲからフェンプロパトリンが「基準の2倍」検出されたと報道されました。キクラゲのフェンプロパトリンの基準も、やはり一律基準の0.01ppm。キクラゲのような、生産量が少ない「マイナー作物」は、農薬メーカーが億単位の費用をかけて農薬登録しても割に合わないから、使える農薬自体が少ないのです。

ギョーザ事件の当初の報道も、「メタミドホス=危険な農薬」といった論調が目立ちましたが、これは毒物を故意に混入した事件だったので、日本でいえば「スーパーで針混入」事件と同根。一種の無差別テロで、同じような事件は日本でもアメリカでも起こりえます。一般的な「中国製食品の安全性」とは切り分けて考えるべきでしょう。実際、輸入農産物における残留農薬の基準違反、「件数」では中国がトップだが、「率」ではアメリカよりも低いのです。要するに分母が大きいということ。

何でも回収・廃棄すればよいのか

日本で食品添加物や残留農薬の基準違反が見つかった時の対応は、いつも、回収・廃棄です。マスメディアもそれが当然のごとく伝えており、消費者もそうとらえています。ところが、これまで述べてきたとおり、基準は相当安全側にマージンを取っているわけで、日本のような、過剰なまでの対応は世界の常識ではありません。例えばイギリスでは、基準の超過の有無とは別に、個々の作物と検出された濃度について健康影響評価を行ってから対応を決めることになっています。

畝山智香子氏は、『ほんとうの「食の安全」を考える―ゼロリスクという幻想』でこう書いています。

安全性に問題のない農作物を廃棄するという行為は、食糧不足に悩む人びとがいるこの世界では決して誉められた行為ではありません。日本でも英国のような対応のほうが望ましいと思います。「農作物を無駄にしない」ためには、検査の後にリスク評価をするひと手間も、必要な対応なのではないでしょうか。(p24)

中西準子氏は、企業が自主的に回収を決める例によく挙げられる理由として、「影響がないとの証明が難しい」「まじめな姿勢を示す」事例が多いとして、「懺悔型の回収」としています。

雑感448-2008.10.14「メラミン汚染(1)回収の意味」

我が社では何かがあれば、必ず回収します、安全問題に熱心ですという態度を表明するために行う懺悔型が非常に多い。これは、この段階では効果的だが、実は、費用がかかる上に、回収の無限の連鎖の始まりになりがちであることに注意が必要である。

BSEの問題をふり返ろう。狂牛病の牛が1頭発見された時、日本全体にどの程度広がっているか分からないので、とりあえず、安全側の処置として全頭検査をすることもあろう。しかし、全頭検査を暫く続ければ、どのくらいの発症率かが分かるし、対策も出てくるので、全頭検査は不要になる。

始める時に、今、発症率についてのデータがないので、リスクがどのくらいあるか分からない、したがって全頭検査をしますと言えば、暫くたって、リスクの大きさが大体把握された時点で、リスクが小さいので、全頭検査をやめることができるし、その説明もできる。しかし、最初にリスクの説明をせずに、全頭検査をするから安全です、国産牛肉を食べて下さいとしか言わないから、相当リスクが低いことが分かった後も、全頭検査をやめることができなくなった。これと同じことが起きる。

将来の同様な事故を防ぐために、今回は回収して、流通経路をきちんと掴もうという意図がある場合を除き、(リスクが明らかに低いと思われる商品の)回収は、潔さの証明のためであって、おおよそリスク削減の効果はない。そして、よく見ると、それはリスク評価をし、消費者に納得してもらうという手続きをやらないことの代償行為だということが分かる。もう一度書こう。極端な回収は、リスク評価ができない、あるいはしないから必要になっているのである。

「回収の無限の連鎖」にかかるコストは、結局消費者に跳ね返ってきます。

有機農産物

科学の用語で、「有機化合物」とは、炭素を含んだ化合物のことで(二酸化炭素など、炭素を含んでいても無機化合物とされているものもありますが)、生命という意味はありません。昔、「生気論」といって、有機化合物は生体反応でしか作れないと信じられてきた名残なのです。19世紀ドイツの化学者、フリードリヒ・ヴェーラーが、無機化合物のシアン酸アンモニウムから尿素が生成しているところを偶然に発見したことがきっかけとなり、生気論は否定され、有機化合物は人為的に合成できるものになったのです。ヴェーラーは有機化学の父といわれています。

食品は、水と食塩を除けば有機化合物から出来ているわけで、ついでに言えば、もとは生物なので、ほぼすべての食品が「有機食品」になるのですが、食品でいう「有機」とは、別の意味になってしまうんですね。高橋久仁子著『「食べもの情報」ウソ・ホント 氾濫する情報を正しく読み取る』によると、「有機食品」なる言葉、1940年代前半に、「化学肥料や農薬を使わない、古典的な農業への回帰に興味を持った米国のある雑誌社の社長による造語」ということです。

「有機=無農薬」ではない

2000年のJAS法改正で、有機JASの認証制度ができて、認証を得ていない作物を「有機」「オーガニック」と称することは出来なくなりました。かなり厳しい基準なのですが、農薬使用が禁止されているわけではなく、使える農薬がいくつか決められています。天然由来物質や天敵農薬(虫が「薬」だというのもヘンですが、天敵として用いる生きた虫も、農薬取締法上「農薬」なのです)が主ですが、マシン油やボルドー液(硫酸銅と生石灰から調製する、古典的な殺菌剤)なども含まれています。

農産物の個別宅配を行っている、とある業者、「有機JASにはこだわりません」といって、有機JAS認証を取らずに「有機」「オーガニック」を謳っていました。この業者、生協の仕組みをまねたのか入会金の必要な会員制を採っているのですが、生協の組合員の場合、自ら運営に参画出来、辞めるときは出資金が戻ってくるのに対し、この業者は生協ではなく株式会社であり、そういう規約はなく、しかも、同じ地域で活動している某生協と名前が似ているので、余計に紛らわしいのでした。生協のほうから苦情が来ないのでしょうかね。

「無農薬」「減農薬」表示は禁止

2004年に施行された農林水産省のガイドラインにより、「無農薬」「減農薬」という表示は禁止されました。「特定栽培農産物 農薬:栽培期間中不使用」というように表示をすることになっています。ただし罰則はありません。したがって、未だに「無農薬」と謳ったものを見かけたら、悪いけど不勉強、もしくはコンプライアンス意識など持ち合わせていないと考えて間違いありません。

有機農産物は健康に良い? 有機農業は環境に良い?

「有機農産物は健康に良い」というようなイメージが漠然としてあるようですが、今のところ、そのようなエビデンス(科学的根拠)はありません。農薬を使っていないことに関しては、すでに述べたとおり、残留農薬のリスクが無視できるほど小さいという現状がある以上、有機農産物に優位性があるとは思えません。では有機農産物のデメリットとしては、堆肥に家畜の糞を用いることによる微生物汚染のリスクがあります。また、「天然農薬」の問題も考えられます。植物は、虫害を受けると、防御反応として防除物質を自ら作り出すことがあり、これがヒトに対してアレルゲンだったり発がん性物質だったりする可能性があり、そういった研究も発表されています。

では、有機農業は環境に良いのかというと、通常の慣行栽培に比べると面積当たりの収量は劣るわけで、同じ収量を得るにはそれだけ広い面積が必要になります。農業自体、自然界には存在しない植生を人為的に作り出しているわけですから、ある意味「環境破壊」であり、有機農業はかえって環境負荷が大きく、効率のよい慣行栽培のほうが環境負荷はかえって小さいのではないかとも思えます。

一部の「食育」を唱えている人たちが、「日本は全部有機農業にすべきだ」みたいなことを言っているようですが、高温多湿で虫害の多い日本では所詮絵空事だと、聞き流したほうがよいでしょう。

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